なぜ今、教師の「権威」は失墜しているのか?
尊敬されない教師が生まれた理由
◆次第に大きくなった「民間のちから」
戦後は学校を動かすちからの配置や力関係が変わってくるが、1960(昭和35)年ぐらいの「農業社会的近代」まで、「教員のちから」はまだかなりの影響力を持っていた。私たちシニア世代はその時代の生徒であった。
戦後も教育を動かすちからの中心には「行政のちから」が位置していたが、反行政的な勢力としての教員組合などの「教員のちから」と現場で勢力争いを続けた。
やがて、そういう政治的・思想的な争いとは別のちからである、産業社会の成立にともなう市民社会の「民間のちから」が親や生徒や世論を通じて学校に浸透するようになる。戦後の学校を変えたのはこのちからである。つまり、市民社会的なちからである。
「民間のちから」が大きく張り出すことによって、「行政のちから」も「教員のちから」もどんどん勢力を弱め後退することになる。
産業社会に見合う子ども(生徒)の成績向上、子どもの商品価値を高める学力向上、受験のための教育・学校が、「行政のちから」が企図していた国家を大事に考える国民形成や、「教員のちから」が推し進めようとしてきた市民形成による公共性の復活を図る教育を押しのける形で、国民の要求として強く望まれるようになっていった。
さらに、それに追い打ちをかけたのが、1970年代後半からの「消費社会的近代」への突入である。経済構造・社会構造が大きく変わり、社会や家庭の意識が自己利益(経済)中心に変わってくる。公共性や精神性より経済性によって動かされる社会である。